2025年12月12日、京都大学吉田キャンパスの「ぶんこも」にて、『シュリック教授殺害事件』(晶文社)刊行記念トークイベントが開催されました(イベントの概要はこちら)。
登壇者は、この本の監訳者で倫理学者の児玉聡先生(京都大学)、編集を担当された吉川浩満さん(晶文社)、そして哲学者の朱喜哲先生(大阪大学ほか)です。
あわせて、大垣書店高野店の倉津拓也さんによる関連書籍の出張販売も行われました。
当日は会場・オンラインあわせて20〜30名ほどが参加し、書籍販売も好調な盛り上がりを見せたようです。
以下、この本の訳者の一人である高木博登(京都大学)が、本の内容をご紹介しつつ、当日行われた議論についてご報告します。
今回のブックトークで取り上げられた『シュリック教授殺害事件』は、20世紀の哲学に大きな影響を与えたウィーン学団の栄枯盛衰を、その中心人物の一人、モーリッツ・シュリックが教え子ヨハン・ネルベックに殺害された事件を軸に描いたノンフィクションです。
論理実証主義や諸科学の統一といった哲学的テーマにとどまらず、当時の政治や文化の状況、反ユダヤ主義、亡命、学者間の人間関係といった社会的背景を織り込みながら、思想が生まれ、受け継がれ、断絶していく過程を描いています。
ブックトークの前半では、登壇者による話題提供が行われました。
まず、児玉先生から、監訳者による解説として本書全21章の概要と見どころが紹介されました。
プロローグにあたる、第二次世界大戦勃発と同時に開催されていた統一科学国際会議から、ウィーン学団の活動、シュリック殺害事件、そして学団の解体と思想の継承に至るまでの流れが整理されたうえで、哲学史を伝記的に描くことの意義や、翻訳という営みが研究において果たす役割についても言及されました。
続いて吉川さんからは、刊行後に寄せられた書評や読者の反応が紹介されました。
哲学書としては異例ともいえる幅広い読者層からの反響があり、「大河ドラマのように読める」「群像劇として面白い」といった評価が寄せられていることが報告され、編集者の立場から見た本書の魅力が語られました。
朱先生からは、特に第七章「コーヒーとサークル」について、論理実証主義が単に大学やアカデミアの内部だけで成立したのではなく、カフェ文化をはじめとする大学外の文化的環境に支えられていたことを示す、象徴的な章であるという指摘がありました。

後半はフロアからの質問を中心としたディスカッションが行われました。
ウィーン学団と日本人哲学者との関係性、ウィトゲンシュタインという人物が持つ独特の魅力といった点について、自由闊達なやり取りが続きました。
なかでも印象的だったのは、学術研究における「伝記」の意義をめぐる議論です。
呼び水となったのは、国語学史を研究する参加者の方から出された、特定の学者を過度に称揚する偉人伝的な伝記が流通すると、後から修正するのが非常に困難になる、という問題提起です。
これを受けて児玉先生は、誤った伝記や偏った人物像はどの分野にも存在すると前置きしたうえで、次のように伝記の意義を語りました。
ある哲学者の思想を理解するうえで伝記は大いに役に立つ。属人的でないことを標榜する分析哲学においてさえ、論文だけを読んで思想を理解・評価することは難しく、実際に、例えばウィトゲンシュタイン理解には伝記的知識が大きく関わっている、と。
さらに、朱先生は、ご自身の研究対象であるローティを例に、哲学史ではあまり参照されてこなかった議事録や給与明細といった資料が、社会学など他分野では重要な手がかりとなっているという状況をご紹介されました。
そして、科学史がご専門の伊藤憲二先生(京都大学)からは、科学史もかつては偉人伝的叙述が主流であったが、現在では知識や学問がどのような制度や社会的条件のもとで生産されてきたのかを問う学問に変容しており、哲学史もそうなっていくのかもしれない、というコメントがありました。
こうしたやり取りの中で朱先生が用いた「学際的なものとしての思想形成史」という言葉は特に印象的で、哲学史・思想史が今後さらに豊かな展開を遂げうる可能性を感じさせるものでした。
私が専門としている分析哲学史においても、分析哲学の発展に対して政治やジャーナルのあり方といった制度面がどのような影響を与えたのかに関する研究が進みつつあります。
過去の哲学者の主張内容だけでなく、その意図や当の哲学者たちにとってどのような意味を持ったものだったのかをより深く理解する契機として狭義の哲学以外の知が必要とされるのではないか。そうした示唆を得ることができました。
近年、『シュリック教授殺害事件』に加えて、『オックスフォードの女性哲学者たち』(青土社)や『デレク・パーフィット』(勁草書房)など、20世紀の哲学に関する伝記が相次いで翻訳・刊行されています。
こうした本は、哲学の入門書として役立つのに加え、すでに研究に携わっている人にとっても、従来とは異なる視点を導入するうえで大きな役割を果たしうるのではないでしょうか。
そうした評価もあってか、『シュリック教授殺害事件』はありがたいことに「紀伊國屋じんぶん大賞2026 読者と選ぶ人文書ベスト30」の一冊に選出されました。
未読の方はこの機会にぜひ手に取ってみてください。