この秋、10月17日に、昨年文学部に新しくできたスペース「ぶんこも」の地下階にて、北インド古典声楽のレクチャーコンサートが開催された。長かった今年の残暑もようやく終わり、まだ冬の寒さが訪れる前、ぶんこも地下階のサンクンガーデン(屋内と屋外を繋げた開放的なスペース)で行うコンサートにはふさわしい季節だ。
6時半からの開演前には、ASAFASの清水氏(印度乳業)が提供するビリヤニ(インド風チャーハン)とチャイで軽く腹ごしらえをする。
まずはレクチャーから。インド音楽といえば、私の世代では一世代前のヒッピームーブメントで親しんだ方々もいるだろうが、今の学生たちには、インド映画で聴き慣れたという人たちが多いのではないだろうか。とはいえ、今日のコンサートは古典音楽なので、映画音楽とはかなり、というかまったく違う。
私自身インドの研究をしているために、インドの古典音楽に触れる機会はちょこちょことあるのだが、特別な知識はなく、大まかに南インド音楽(カルナーティック)はヒンドゥーの音楽伝統を伝え、北インド音楽(ヒンドゥスターニー)はペルシャ音楽の伝統を融合させているというくらいなので、レクチャーから始めてくれるのはありがたい。
講師であり、コンサートの歌手でもある虫賀幹華氏は、現在は大阪大学にてヒンディー語とヒンドゥー文化を教えておられるが、北インドのアラハバード大学に長く留学されていて、主として祖先祭祀で名高いビハール州のガヤーという聖地の研究をされていた方である。サンスクリット文献とヒンディー文献、それに現地での碑刻文や遺跡、現在も続いているパンダー(日本の御師に当たる)の伝統の調査を加えて、総合的にガヤーという聖地の歴史と現状の研究をされてきた。インドから帰国後は京都大学文学研究科にてポスドクとして所属し、聖地巡礼や祖先祭祀の儀規に関するサンスクリット文献を一緒に読んだりしていた、私の研究仲間でもある。
一方、打楽器タブラー奏者の井上春緒氏は、現在ASAFASにて、北インド古典音楽の音楽理論、インド音楽とペルシャ音楽の出会いと統合のさまを研究しつつ、演奏者としても研鑽中とのことである。私的には、インドの古典音楽の花は打楽器だと思っている。北インドのタブラーや南インドのガタムやムリダンガムなど、いずれも私にはとても追うことができないリズムを刻む。4拍子や8拍子ならともかく、5拍子や7拍子、それらの組み合わせとなると。さらに、それをメロディーのリズムから少しずつずらしていって、数小節後の出だしの音で合わせるとか、超人技としか思えない。
インドで古典音楽コンサートに行ったことがあるが、その音が合うところで観客はわっと湧く。観客もプロなのだ。

レクチャーの内容からいくつか私の興味を引いた点を述べておきたい。
一つ目は、今回披露された声楽は、「カヤール」というジャンルの楽曲で、ムガル宮廷で発達したものであり、当時のインド・イスラーム文化(あるいはインド・ペルシャ文化)を象徴するものとして、ヒンドゥー系の信仰に関わる歌と、イスラーム系のスーフィーやムハンマドを讃える歌が混在しているという点だ。実は上に述べたように北インド古典音楽はインド音楽とペルシャ音楽の融合という知識はあったが、やはりイスラーム政権であるムガル朝などで発達しているので、漠然とイスラームの信仰を示す歌が大半だと思っていた。音楽の伝統の中では、信仰の差異はあまり問題にならないというのは興味深い。
二つ目は、虫賀氏自身が留学中にどうやって古典声楽を習ったかという話で、音楽学校はあるが、本格的に習うには特定の師匠につくことが必要とのこと。インドでは宗教の教義や儀礼、伝統的な学問分野においても、師子相承が重んじられている。学問分野に関しては大学教育などに取って代わられつつはあるが、逆にそれが質の低下を招いているという批判もある。マス教育にはない、師子相承だからこその質の保証は、現代の教育のあり方には逆行するのかもしれないが、重要な点かもしれない。
最後に即興性について。即興といっても完全な即興ではなく、基本旋律を変化させながら、即興的に発展させていくとのことだ。この即興性を含め、インドの古典音楽は個人技の集合体である。もちろん合奏はする。今回は声楽と打楽器というシンプルな構成であるが、これに弦楽器が加わることは多く、また踊りが加わることもある。それでもハーモニーではなく、あくまでも個々の共演者の集合体という気がする。
ここがオーケストラやポリフォニーを発展させた西洋音楽とはまったく違う。なぜなのか。東洋対西洋という雑な括りでは語れそうもないし(インドネシアのガムランはオーケストラに近い気がするが?)、簡単に答えが出るものではないが、考えてみるにはおもしろいテーマだ。
このレクチャーの後に、演奏が始まる。
まずは「ラーグ・ブーパーリー」。この2曲目に『ギータ・ゴーヴィンダ』の一節を歌ってくれたのは嬉しかった。非常に有名なクリシュナとラーダーの恋を歌う詩であるが、古典的な詩の中に「歌」を組み込んでいる点で、サンスクリットの詩の伝統と、当時の古ベンガリ語の民俗的な歌の伝統をサンスクリットに移したと思われる「歌」とを融合させた非常にユニークな作品である。二つ目の演目は「バジャン」。トゥルスィーダースという有名な詩人に託されたラーマを讃える詩である。クリシュナもラーマもヴィシュヌ神の化身とみなされており、ムガル期から現代に至るまで、インドで最も人気がある神かつ英雄である。ここに上に述べた、イスラーム政権下の北インド音楽の中で息づいているヒンドゥー文化をうかがうことができる。

演奏の後の質疑応答は非常に活発に行われた。参加者は教員もいたが、ふらっと立ち寄ってくれた学生たちが大半ではないだろうか。
インドの研究に携わる者としては、こういう形でインドの伝統文化に少しでも触れて、興味を持ってもらえるととてもうれしい。
授業でなかなか楽しく学んでもらうを実践できなかった身としては、このような機会を作ってくれた「ぶんこも」運営に携わる方々、そして演奏者お二人と料理を提供してくれた「印度乳業」さんに感謝したい。